4月29日 父がこの世界を体験するためのBODYが、抜け殻になった。

 

2月の半ばに、なんとなく4月末に旅立つような気がして、仮に4月30日に亡くなると、通夜や告別は5月の3日と4日あたりになるなぁ…と考えていた。

もしそうなると、大坂WSの日程と丸被りになって、ドタキャンになってしまうなぁ…と。

諦めたくない気持ちもあり、1週間程迷ったが、結局翌週に大阪のWSは、中止にすることにした。

 

3月上旬に父が動けなくなり、救急車を呼んだ時には救急隊の呼びかけに反応がなく、「病院に着く前に絶命してしまうかもしれない」と言われたくらい厳しい状態で、医者からも「今日か明日にも」との話があった。

 

その後に持ち直すと、腸ろう(胃がないので、胃ろうの変わり)や点滴等の治療をしなければ、1週間持つかどうかという説明だった。

それらの延命につながる治療は全て断り、脱水症状を防ぐための水分補給の点滴だけをして、心臓が止まるまで、父は残りの時間を病室で過ごすことになった。

 

アルツハイマー型認知症だった父が、どこまでこの状況を理解できていたのかは分からないが、繰り返し「家に帰りたい」と口にしていた。

父や母の希望を叶えて、できることなら家で看取ってあげたかったが、もはや飲まず食わずで完全介護が必要な今、できないことが多過ぎた。

 

面会は「1週間に1回、2人限定で15分だけ」という条件があり、入院後に直接様子を見るのは難しかった。

 

4月15日に危篤になり、そのタイミングで個室に移ってからは毎日面会ができるようになったが、「2人限定で15分」という条件は変わらなかった。

 

全く飲まず食わずで1ヶ月半が過ぎた頃、目に見えて日に日に痩せていった。 そんな父の顔を見ると、やっぱりもう2~3日か...と感じられ、ほとんど動くこともなくなっていった。

 

22日に二度目の危篤になった時、顔を見るとさすがにもうダメか!と思えるものだったが、それでもずっと、旅立つのは「4月末」という感覚があった。

 

自分が最後に会ったのは、亡くなる2日前だったが、もはやほとんど反応もなく、呼びかけにほんの数十秒目を開けるのがやっとだった。

それでも母の呼びかけに対して、ゆっくりと母の方に手を伸ばして、何か言葉を口にしようとしていた。

言葉はもはや声にならないので、少しだけ口を動かしただけで終わってしまった。

 

5月3日に通夜式、4日に告別式と一通り終えた後、急にどっと疲れを感じたのと、父のことがあれこれと浮かんできた。

バタバタとしている間は、あんまり感傷的になる時間もないものなんだなと思った。

 

子供の頃に聞いた話を、なぜかしら思い出していた。

東京大空襲で燃え盛る東京の空を見て、恐怖で震えた夜。

夜空が真っ赤に染まって、茨城にも火の粉が舞っていたそうだ。

育ち盛りに食べるものがなく、飢えに苦しんだ日々。

兄妹が多く、食い扶持を減らすために親戚の家に出された幼い日。

丸1日歩いて、一人残された時は、どんな想いだったろうか。

 

父が旅立つ少し前から、先に亡くなっている父の兄が一緒にいた。

父が旅立った翌日、あの時病室で母に何を言おうとしていたのか尋ねると「ありがとう」の一言だった。

あの時父が何を言おうとしていたのか、その言葉を理解した時、ではあの時の父は、自分の死期を悟ったのだなと思い、切なさも感じだ。

父が母の手を握り感謝の言葉を口にするなんて、ちょっと考えられなかったので、少し胸にくるものがあった。

 

 

父の最後の場面と、さだまさしの「関白宣言」が重なって、子供の頃は「面白い歌だな」と思ってたけど、「ああいい歌だったんだな」って思った。

 

「子供が育って 年をとったら 俺より先に 死んではいけない

たとえばわずか 1日でもいい  俺より早く 逝ってはいけない

お前のおかげで いい人生だったと 俺が言うから 必ず言うから」

 

 

「お前の親と 俺の親と  どちらも同じだ 大切にしろ

姑 小姑 賢くこなせ たやすいことだ 愛すればいい」

これまでも両親を大切にしてくれたことに感謝はしていたが、最後も色々と、あらためてありがたいなと感じた。