2021年9月10日 その2

「死」は恐ろしいもの。

「死者」は忌み嫌うもの。

それが普通の反応であり常識、私達の信念なのだろうと感じました。

先祖であれば尊ぶ気持ちさえあるのに、他人になると全く違う感情を抱くのが「死者」に対する一般的な反応なのだと感じました。

またそれが事件性のあるものや事故によるものであった場合、事件や事故といった凄惨な出来事による影響が大きく、それに比例して心理的に与える影響も大きいものなのだと感じました。

ショッキングな出来事ほどインパクトは大きく、その出来事自体がクローズアップされてしまう傾向になるのだと思いますが、それによって犠牲となってしまった「死者」は、もっと大きな感情に囚われていることと思います。

悲劇的で凄惨な「死」を迎えてしまった「死者」との接触を、反射的に拒んでしまった反応をした方を、責める気持ちなどは一切ありません。

これらの非常に複雑でデリケートな問題は、自分自身に及ぼす影響や負担も大きく、簡単に正面から向き合えるテーマではないと感じました。

 

 

ごく稀にですが、私のことを頼ってくれて、ご相談を受けることがあります。

私は個人セッションはしていませんので、メールだけでのやりとりになりますが、そんな時は自分にできる範囲で、できる限り力になりたいと思っています。

但し、「私が直接的に何かをすることで解決する」ような方法を望まれる場合には、きっぱりとお断りをしています。

自分自身で解決に至る方法を見出していかないと、何の意味もないからです。

「この問題は自分には解決できない。できる人に頼もう」

もしもそうやって人生の問題を解決したつもりになっているとしたら、それは大きな誤りであると、私は思います。

自分に解決できない問題など、絶対にありません。

「死者とのコンタクト」ですら、誰にでも可能です。

自分の信念を超えていければ、特別なことなど、何もありません。

誰にも依存しないで下さい。

自分の人生の決定権を、誰にも委ねないで下さい。

ですから私にできることは、そのためのお手伝いに限定されてしまいますので、ほんの少しのことだけです。

「死者」から自発的に助けを求められたことはありませんが、助けが必要な状況に遭遇した場合には、自分にできることまでのお手伝いはしています。

「死者」に対するお手伝いも、最後は「自分で気がついて」もらうこと、「自分で選択をして」もらうことになります。

 

これは私の価値観でしかありませんが、私がヘルプをする相手に「生者」も「死者」もないんですね。

生きているか、死んでいるか、そこんとこはどうでもいいんです。

自分に何かができるなら、同じスタンスでそれをするだけです。

それは凄いことでもなければ、尊いことでもありません。

それはごく普通のことで、電車の席を譲ることと変わらぬ、同じ日常の1コマです。

 

出版している本のイメージからなのか、よく勘違いされることがありますが、私自身は「死後の世界」や「死者」に対して、特別に強い関心を抱いているわけではありません。

むしろ関心が強いのは、この世界での過ごし方の方ですね。

今度の休みは皆で一緒にどこに行って、何をしようか? 

この世界を楽しむことを考えていますが、大人数で遊ぶ方が楽しいので好きですね。

でも同時に向こうの世界のことを考えている時もありますから、少し異質だと自覚しています。

WSを始めてからのことになりますが、この世界の個人達と接していながら、同時に向こうの世界の存在を意識している時があります。

 

レトリーバルを必要としているのは、何も「悲劇的な死」を遂げてしまった人だけではありません。

どれほどレトリーバル(魂の救出活動)をしようとも、意識領域のどこかに囚われた存在達がいなくなることはありません。

四六時中そのことを考えているなんてことはありませんが、絶えず頭の片隅にはあるようにも感じています。

 

「一人でも多くの人にレトリーバルをできるようになってもらいたい」

これはブルース・モーエンの語っていた夢の一つです。

ブルースはこれをワークショップの目的の一つとしていました。

 

私自身は、レトリーバルに強いこだわりを抱いているわけはありませんが、これも大切なプロセスの一つだと認識しています。

私という個人の体験をしている視点では、私と関係のある存在以外をレトリーバルする必要性は感じないだろうとは思いますが。

 

 

「それを見なければ、それは自分の世界には存在しない」という解釈を聞いたことがあります。

戦争やテロについての質問に、5次元の存在が答えるというものだったと思います。

「それはあなたの世界で起きていることではない」

「あなたは平和を望んでいるから、あなたの世界ではそれは起こらない」

私には質問の答えになっているように思えませんでしたが、この時の質問者は「不安が消えた」と喜んでいました。

この話は極端な例えとしてシェアをしていますが、極端だからこそ分かりやすいと思います。

「それを見なければ、それは自分の世界には存在しない」というこの解釈は、このことをどんな事象に置き換えて考えてみても(例えば戦争やテロ)「それを見なければ、それは自分の世界には存在しない」ように思えるかもしれませんが、それは実際にはこの世界のどこかで確実に存在しています。

それは「目を逸らすことで対処」しているだけだと思います。

「見て見ないフリ」をしているだけで、あたかも存在しないかのように思い込んでいるだけです。

「その視点は、まさに分離の視点の体験です」と私は思います。

「それを見なければ、それは自分の世界には存在しない」という解釈は、「排除」だと私は感じています。

ネガティブな事象を見ないことで対処することは、自分の世界から排除しただけの分離の体験だと思っています。

統合とは真逆の体験であり、何の解決にもならないと、私は感じています。

では、統合に向けてどう取り組んで行くのか?

WSを通して、また皆さんと一緒に、この壮大なテーマに取り組んでいきたいと思っています。

 

地味に地道に、楽しんで行きましょう♪